JIHOU
寺宝について
天台宗 龍宝山 知行院には、約400年の歴史の中で守り続けられてきた寺宝があります。
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三尊形式のご本尊
お寺に祀られている本尊仏像には宗派や安置される場所により多くの形式があります。
法華経を依経とした二仏並坐像、過去、現在、未来を著した三世仏、本尊を四方から守護する四天王、輪廻を回る六地蔵や、六観音、密教尊で曼荼羅等々に登場する五智如来や、五大明王、三門で睨みを利かす金剛力士、その他護法尊として八部衆、十二神将、仏の三身(「法身・報身・応身」)、などが挙げられます。
中でも三尊像形式とは、如来像を中尊として中央に置き菩薩像を脇侍として安置される三身一体像で大乗仏教特有の配置であり大勢を占めています。
「無量寿経」「観無量寿経」を典拠とした阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)、「薬師本願経」を依経に薬師三尊(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)釈迦如来を中心に、左右に文殊・普賢や薬王・薬上、禅宗の迦葉・阿難などの二菩薩を配した釈迦三尊などが有名な三尊仏といわれています。
また、清水寺(十一面観音、地蔵菩薩、毘沙門天)唐招提寺(毘盧遮那佛、千手観音、薬師如来)、天台系葛川明王院、横川中堂(千手観音、毘沙門天、不動明王)など寺の縁起などを元にした三尊形式などもあります。
その中でも、知行院の本尊は他に類を見ない三尊形式をとっています。
薬師如来を中心に十一面観音、阿弥陀如来が両脇に祀堂されているが、中尊と脇侍ということではなく、知行院歴代のご本尊三体を一緒にお祀りしていいます。
知行院の創建は史料が乏しく明確ではありませんが、「新編武蔵風土記稿」や仏像の造立時期を鑑みると天正年間(1573~1593)には既に創建されていたことがわかります。
当時の本尊は十一面観音で、享保10年第13世聚海和尚が発願し第14世辨祐和尚が続願で本堂と山門を新築した際、本尊は寛永20年(1644)造立の阿弥陀如来に変わります。現在の本尊、薬師如来(1684年造立)は、明治の初に廃寺となった本寺祷善寺の本尊であったものが、明治21年に知行院にもたらされ本尊となったものです。
平成26年、第28世住職晋山を機に天正年間から平成に至るまで約450年以上の間、知行院檀信徒をお見守り頂いた三体のご本尊を宮殿を新設し知行院独特の三尊形式として祠堂することとしました。 -
十一面観音菩薩像
『風土記稿』によると、天正16年(1588年)に頼存法印によって開山された当時の知行院の本尊と記録されている木造立像です。世田谷区では数少ない室町時代制作の古像でもあり、世田谷の中世史を考える際に重要な像として認識されています。
顔立ちはやや面長で、頬には微妙に張りが認められます。吊り上がり気味の目、引き締まった口元によって、意志的なまなざしを持つ男性的な表情が示されていて、仏師の力量が感じられます。
鼻筋の歪み、耳の形状の左右差が異なっていることなど、各所に削りなおしや補填された箇所が見受けられます。
衣類表現は背面が省略されてはいますが、全体的に大振りでのびのびと表現しており、形式に囚われない作風になっています。 -
徳川幕府歴代将軍御朱印状
朱印状(しゅいんじょう)とは、日本において(花押の代わりに)朱印が押された公的文書(印判状)のことです。
主に戦国時代から江戸時代にかけて戦国大名・藩主や将軍により発給されたものです。
特に、江戸時代において将軍が公家・武家・寺社の所領を確定させる際に発給したものは、領地朱印状とも呼ばれています。
「新編武蔵風土記稿」によると慶安2年10月17日、8石2斗余の寺領朱印状を徳川家光から賜り、以後代々の将軍より14代家茂まで続きました。 -
檀信徒過去帳
創建以来、約400年にわたってすべての檀信徒の方々のお名前を記帳し続けており、今でも大切に残されています。
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棟札
知行院の始まりを印している重要な寺宝です。建立した年、目的大工等が丁寧に書き残されています。